郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書) |
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著者: 若林 幹夫 定価: 価格:→¥ 376 | 印象的なエピソードと効果的な団地などの写真 ![]() ![]() ![]() これが「社会学」であるのかどうか私にはわからないが,郊外に関するさまざまなエピソードを 5 つの章にまとめている.新書なので印刷はあまりよいとはいえないが,団地などの写真が効果的に配置されている.区別のつかない建物や部屋がならぶ団地に関するエピソードとして安部公房の「燃えつきた地図」や「ウルトラセブン」の「あなたはだぁれ?」という話がとりあげられているのが印象にのこった. 生きることの条件としての郊外 ![]() ![]() ![]() ![]() 著者は、これまで郊外について言われてきた言説を大きく2つにわけます。まずは社会学者達による、伝統やコミュニティの不在の指摘。つぎに建築家達による、オリジナルで優れたデザインの不在の指摘。 こうして大きく2つの視点から批判される郊外ですが、著者は自らが郊外地居住者であるという視点から、郊外で生きることこそが現代人の生きる条件なのだと議論します。そして、たとえ浅くても、そうした郊外で積み重ねられてきた記憶を辿っていこうではないか、というのが全体のテーマです。 あとは、優秀な著者のことですので、時折引っ張ってくる文化論や統計データも説得的で、勉強にもなります。「生きることの条件としての郊外」論の視点が、一通り身につくと思います。 建築様式を超えたポストモダニズム ![]() ![]() ![]() ![]() 無理矢理「動ポス」的に読むとすれば、都市を「郊外」からポストモダン的に定点観測した著書といえるかもしれない。 地方出身者の「都会的な生活」への憧れと、都市出身者の「都市には無い理想的な生活」への憧れを一手に背負い込んだ「郊外」。さらにそこには核家族という新しい家族像への期待も混じり、郊外は一つの「大きな物語」としての機能を持つようになった。 しかし、1980年代以降「郊外」が一般化するに従い、そうした理想は物語としての機能を失う。ニュータウンの建築様式が画一的なモダニズムから、装飾をほどこしたポストモダニズム的になっていったのもこの頃からだった。それはどこかで見たような「地中海風」とか「イタリア風」と言った記号を消費する、データベース的建築様式である。そして人々の行動様式もまた、一つの価値観を共有しようという「共同体志向」から、単に住む場所を偶然にも共有するだけの「共異体志向」へと変化している。 通底する筆者の方向性を汲み取れば非常に示唆的であり、面白い。新書だが、時間をかけて読み込む必要がある。 |
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ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y) |
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著者: 三浦 展 定価: 価格:→¥ 94 | ファスト風土は支配されるな! ![]() ![]() ![]() ![]() 『脱ファスト風土宣言』、『下流社会』、『下流同盟』の原点となる作品。久しぶりに読み返してみた。 「ファスト風土」とは、「ファストフード」をもじった三浦氏の造語である。 いまや地方都市の幹線道路を走ると、旧市街の外れに現れる、巨大ショッピングセンター、ファストフード店、紳士服、サラ金、パチンコ、カラオケ、ファミレス、ラブホ、果ては温泉まで・・・。 本当に、ファストフードの全国一律のサービスみたく、同じような風景が青森でも栃木でも高知でも見られる。 (私は自転車であちこち走ってきたが、これでは何のために旅してるか分からなくなってくるほどだ。今では、出来る限り、旧道を走るようにしている。) それに引き換え、古くからあった個人経営主体の商店街は壊滅状態に。地域コミュニティは崩され、家族も専ら消費共同体に変貌し、若者の無気力にもつながったという。のどかな地方では考えられないような犯罪の多発についても言及されている。 郊外化の進展により、地域が均質化、画一化、匿名化、流動化がしてしまい、単なるモノの消費に頼る生活を続けるリアリティの欠如こそが、ファスト風土化の真髄だと思う。人間味を欠いた機械のような空間やライフスタイルを強いられるのが豊かな社会だとは到底思えない。 そういう意味では、歴史や風土、人々の生活から乖離した薄っぺらい社会に落ちぶれたと感じざるを得ない。街には、もっといろんな意味、要素があったはずだ。 しかし、この問題のややこしくしているのは、実際にファスト風土を享受している地域住民の意識だろう。「クルマ利用に便利で、値段も安くていいことばかりだ」と言う意見も多く聞かれる。それを否定はしないが、要するにそういう人は、郊外ライフスタイルを謳歌しているつもりが実は、「ファスト風土に利用され搾取されている」と思う。 それは、漫画「ドラゴン桜」ともつながってくる箇所が多いように思える。 ”働かずに金を得ることを当然視する退廃的な価値観の蔓延だ。生きる意味の喪失だ。” ”彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に生きることしか考えない。”(p178より) 総郊外化による地方の退廃に対する危機感 ![]() ![]() ![]() ![]() 「郊外化」を都市計画や建築の問題としてとらえる松原隆一郎のような論者と,それを人間や社会の問題としてとらえる宮台真司のような論者がいるなかで,両者をつなぐ議論を展開し,郊外化を単に都市周辺の問題でなく日本全体の問題 (「総郊外化」) としてとらえているのが本書の著者である. 「街をつくらない」ジャスコや他の大型店の地方進出によって享楽的・退廃的な消費社会がつくられたと主張する,その危機感には迫力がある.一方で吉祥寺,下北沢,高円寺などの東京の都市には「新たな原理」をみている.主張の根拠は十分ではないが,それは読者に課せられた課題とかんがえることができる. 犯罪との関連性も説明できていない ![]() ![]() 地方都市の郊外に住んで10年。確かに作者の言うような店の並びがピタリと当てはまる。 ジャスコ、ユニクロ、ダイソー、青山、吉野家、マクドナルド・・・・という具合に。 それらの店は結構支持されている様子だが、それだけでは「地方の人々の心が荒れている」 証明にはならないように思う。 幹線道路を一歩はいれば清掃活動や地域の活動はまだまだ行われているし、おかずのやり 取りさえある田舎のよさも拾ってほしかった。そういう本じゃないのはわかっているけど。 住民たち自身が気付きさえすれば「顔の見える町つくり」は田舎でこそ実現できると感じた。 |
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まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫) |
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著者: 宮台 真司 定価: 価格:→¥ 199 | 強度を ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 保つために、女子高生のようにまったりと生きろ、という宮台の主張のうちの一冊。 中でも興味深かったのは、好きなもの同士で、好きな時間に、好きな教師に、好きな科目を、学習する、というスタイルを学校でとったならば、いじめはなくなった、というデータ。一概には言えないだろうが、興味深い。学校化した社会の中で、「自己決定能力」というものを養わなければどうしようもない、ということ。中身を変えれば、教師に「生徒のサインをひとつ残らず見逃すな」と超人的能力を要求することのなくなる、という。 彼の主張するとおり、「ゆとり教育」というものが導入されて、学校自由化が推進している。が、学力調査で日本の順位が落ちている、と騒ぐ識者がいる。ゆとり教育で授業時間が減ったんだから、学力が下がるのはあたりまえなのに、それで下がっていて騒ぐ、というのは、なんのためのゆとり教育なのか一度考えてもらいたい。 まぼろしの郊外とは。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 成熟し複雑化した近代社会では、何が良いことで何が悪いことかは自明のことではなくなる。そのような社会においては、一概に「売春」や「援助交際」を「悪い」ということはできない。 そもそも日本には、一神教的な神は存在しない。だから神に対する「罪の意識」はありえない。だが、その信念を保障してくれるような「内的確かさ」もありえない。要するに、日本社会は「倫理」なき社会だ。 日本では、伝統的に「倫理」に変わって「道徳」が社会を律してきた。「道徳」とは、同じ共同体に属する人々の視線に規律されることだ。しかし共同体が、郊外化=「団地化」、「コンビニ化」を通じて解体した。第一段階の郊外化である「団地化」は、“地域共同体の崩壊”と“家族への内閉化”をもたらし、第二段階の郊外化である「コンビニ化」は、“家族共同体の崩壊”と“第四空間化”をもたらした。 これにより日本社会においては、「道徳」は意味をなさなくなった。前提となる共同体が解体したからだ。日本の「道徳」とは、「郷に入りては郷に従え」的である。そして、これは「旅の恥はかき捨て」と表裏一体。すなわち共同体が解体して、そのまなざしがないところでは、「何でもできてしてしまう」。 そして若者たちは、地域共同体から「第四空間」である街に流れ出した。 この背景には、「学校化」という重要な問題もある。以前は家・学校・地元にはそれぞれの評価基準があった。しかし評価基準の均質化が始まり、学校の優等生・劣等性は、家や地域でも優等生・劣等性としてしか見てもらえなくなる状況がでてきた。「学校化」により、空間的には、家も地域社会も学校的なものの「出店」になり、時間的には、教室にいる時間だけでなく全生活を覆うようになった。 そのような学校的なイメージから解放され、閉塞感を打破するためには、街に出て行くしかなくなってしまう。街は「風景」としての他人ばかりで共同体のまなざしのない場所であるから、若者は何でもできてしまう。 そしてこれが、テレクラ、ブルセラ、デートクラブ、そして援助交際へとつながる素地を作りあげた。「倫理」や「道徳」が存在しないので、体を売ろうが何をしようが恥ずかしくなくなった少女たちが現れてきたのだ。 そして少女たちは、そのなかで「まったり」と過ごし、輝かしくない「終わりなき日常」に適応し生活している。 それなりにインフォマティブですが、語り口が。。。 ![]() ![]() ![]() この著者については、もちろん、名前やお顔はよくお見かけしていたのですが、著作に目を通したのは初めてです。<p>明晰な頭脳で知られる著者だけあって、独自のフィールドワークの部分や、切れ味鋭い現状分析の部分については興味深く読ませていただきましたが、具体的な改善案を提案する部分を読んでいるときには、頭の中で警報機が鳴りっぱなしでした。その理由は、著者独特の語り口にあるように思います。<p>たとえば、著者は「システムの問題と個人の実存の問題を区別しなければならない」と言っていますが、何がシステムの問題で何が個人の実存の問題かは、理論だけで自動的に決まるものではなく、何らかの価値観に基づく社会的選択の問題ではないでしょうか。<p>著者は、少女の売春などをシステムの問題とし、オウム事件のような「終わりなき日常」に耐えられない人々の犯罪を個人の実存の問題とみなしているようですが、なぜその逆(あるいは、どちらもシステム・実存の問題)でないのか、ということは、それほど自明なことではないはずです。<p>そもそも、分析や批判は論理だけでもできるかもしれませんが、なんらかの価値観に基づかない改「善」案などというものは、それこそ論理的にありえないはずで、その前提となる価値観を明示せず、すべてが自明の前提に基づく当然の結論であるかのように書く著者の文体は、私のようなものにはかなり欺瞞的に写りますし、著者の主張に納得できない人には、なにかたちの悪い詐術にひっかかったような印象を与えるのではないでしょうか。<p>そのような矛盾はいろいろなところに現れていて、たとえば、「価値観は構造的メカニズムの派生物に過ぎない」のなら、「ロマンチシズムに固執する大人世代」に宮台先生が説教するのもムダだということになるはずだし、「共同体が失われ、一神教的な父なる神のいない社会では、原理的に良き父親と悪しき父親の区別ができない」のなら、いくら個人の自己決定能力を鍛えたって、それがよい方向に収束する保証などないのではありませんか?<p>著者が多用する、「社会学では」とか「社会システム理論では」というフレーズも、ややコケ脅し的に響きます。そもそも、社会科学がどこまで客観科学足りうるのかということ自体、一定の留保が必要なのではなかったでしょうか。<p>そんなわけで、素直な人や、理屈や権威に弱い人には、正直あまりお勧めしたくない本なのですが、もちろん、賛成できる部分もあったし、それなりにインフォマティブでもあったので、星3つ。 |
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Peaceful Colors Vol.2 Suburban |
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製作: デザインエクスチェンジ 定価: 価格:→¥ 25,560 | |
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